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最高裁判所第三小法廷 昭和58年(オ)1311号 判決

上告人

崔昌華

被上告人

日本放送協会

右代表者会長

川原正人

主文

上告人の謝罪、謝罪文の放送及び新聞紙上への掲載並びに慰藉料の支払の請求に係る部分につき本件上告を棄却し、その余の上告を却下する。上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告人の上告理由について

氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であつて、人格権の一内容を構成するものというべきであるから、人は、他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有するものというべきである。しかしながら、氏名を正確に呼称される利益は、氏名を他人に冒用されない権利・利益と異なり、その性質上不法行為法上の利益として必ずしも十分に強固なものとはいえないから、他人に不正確な呼称をされたからといつて、直ちに不法行為が成立するというべきではない。すなわち、当該他人の不正確な呼称をする動機、その不正確な呼称の態様、呼称する者と呼称される者との個人的・社会的な関係などによつて、呼称される者が不正確な呼称によつて受ける不利益の有無・程度には差異があるのが通常であり、しかも、我が国の場合、漢字によつて表記された氏名を正確に呼称することは、漢字の日本語音が複数存在しているため、必ずしも容易ではなく、不正確に呼称することも少なくないことなどを考えると、不正確な呼称が明らかな蔑称である場合はともかくとして、不正確に呼称したすべての行為が違法性のあるものとして不法行為を構成するというべきではなく、むしろ、不正確に呼称した行為であつても、当該個人の明示的な意思に反してことさらに不正確な呼称をしたか、又は害意をもつて不正確な呼称をしたなどの特段の事情がない限り、違法性のない行為として容認されるものというべきである。更に、外国人の氏名の呼称について考えるに、外国人の氏名の民族語音を日本語的な発音によつて正確に再現することは通常極めて困難であり、たとえば漢字によつて表記される著名な外国人の氏名を各放送局が個別にあえて右のような民族語音による方法によつて呼称しようとすれば、社会に複数の呼称が生じて、氏名の社会的な側面である個人の識別機能が損なわれかねないから、社会的にある程度氏名の知れた外国人の氏名をテレビ放送などにおいて呼称する場合には、民族語音によらない慣用的な方法が存在し、かつ、右の慣用的な方法が社会一般の認識として是認されたものであるときには、氏名の有する社会的な側面を重視し、我が国における大部分の視聴者の理解を容易にする目的で、右の慣用的な方法によつて呼称することは、たとえ当該個人の明示的な意思に反したとしても、違法性のない行為として容認されるものというべきである。

これを本件についてみるに、原審の確定したところによれば、上告人は、韓国籍を有する外国人であり、その氏名は漢字によつて「崔昌華」と表記されるが、民族語読みによれば「チォエ・チャンホア」と発音されるところ、被上告人は昭和五〇年九月一日及び二日のテレビ放送のニュース番組において、上告人があらかじめ表明した意思に反して、上告人の氏名を日本語読みによつて「サイ・ショウカ」と呼称したというのであるが、漢字による表記とその発音に関する我が国の歴史的な経緯、右の放送当時における社会的な状況など原審確定の諸事情を総合的に考慮すると、在日韓国人の氏名を民族語読みによらず日本語読みで呼称する慣用的な方法は、右当時においては我が国の社会一般の認識として是認されていたものということができる。そうすると、被上告人が上告人の氏名を慣用的な方法である日本語読みによつて呼称した右行為には違法性がなく、民法七〇九条、七二三条に基づく謝罪、謝罪文の放送及び新聞紙上への掲載並びに慰藉料の支払を求める上告人の請求を棄却すべきものとした原審の判断は、その余の判断をするまでもなく、結局において正当であるから、首肯するに足りる。所論中違憲をいう部分は、その実質において不法行為に関する法令の解釈適用の誤りをいうものにすぎず、原審が不法行為の成立を否定した点につき結局において法令の解釈適用の誤りのないことは、右説示のとおりである。論旨は、採用することができない。

なお、上告人は、謝罪、謝罪文の放送及び新聞紙上への掲載並びに慰藉料の支払を求める請求を除くその余の請求に係る部分については、上告理由を記載した書面を提出しない。

よつて、民訴法四〇一条、三九九条ノ三、三九九条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官長島敦 裁判官伊藤正己 裁判官安岡滿彦 裁判官坂上壽夫)

上告人の上告理由

〔1〕 第一審、第二審の判決は日本国憲法の基本精神である基本的人権の最大限の保障と日本国が批准した国際人権規約――市民的及び政治的権利に関する国際規約第二七条にあるような少数民族の言語を使用する権利を否定されることがないという基本的立場からみた場合、解釈適用の誤りをおかしているといわざるをえない。

人格権訴訟が提起されたのは一九七五年九月一日「在日韓国人・朝鮮人の参政権を含む基本的人権の保障」を北九州市長に求める公開質問書提出に伴つて生じた人権侵害に対するものである。

「在日朝鮮人が人間であり、人間として、人間らしく生きる権利がある」という人権獲得の出発である。

朝鮮人は土地を奪われ、更に祖先代代受け継いできた名前までも奪われると共に日本の地に強制連行され、今日まで犯罪人のように指紋を押され、犬の鑑札のように外国人登録証の常時携帯が義務づけられている状況から「朝鮮人も日本人と同じく人間であり民族として生きる権利がある」としてそれを法的に獲得する闘争の過程でNHKが名前の日本語音読みで、しかも上告人の民族語音読みを知りながらあえて、意図的に放送することにより現代の創氏改名を迫つた。即ち上告人の人格と民族としての生きる権利をふみにじつた。

日本国憲法には基本的人権を最大限に保障すると規定し、国際人権規約――市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二七条人種的・宗教的又は言語的少数民族の存在する国において、かかる少数民族に属する者はその集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し自己の宗教を表明しかつ実践し、又は自己の言語を使用する権利を否定されることはないと規定している。

右の規定のように基本的人権と少数民族の文化、言語の使用の保障ということを基本にして法的評価を加えなければならない。

このような意味で第一審、第二審判決は解釈適用の誤りをおかしているといわざるをえない。

〔2〕 第一審判決は「以上の事実によれば被告は原告の氏名が韓国語音によれば「チォエ、チャンホア」と発音するものであることを知りながらその放送にあたつてあえてこれを日本語音よみにより「サイ、ショウカ」と呼んだものといわざるをえない。」と判示し上告人は在日韓国人で名前が「チォエ、チャンホア」と呼ぶことを認めている(第一審判決十五枚表九行目から)

上告人と被上告人との私法上の契約関係を表すものとしては放送受信料領収証がその唯一の証拠である。

一九七四年三月一七日領収証(甲五十二号一〜四)に「チォイ、チャンフア」と表記されており、訴訟提起前も現在も「チォエ、チャンホア」となつている。

放送受信料請求の時は「チォエ、チャンホア」とよび放送の時は勝手に名前をかえてよぶこと、このことこそ契約違反である。民主社会では個人間の契約が尊重されるような法的評価がなされなければならない。

〔3〕 上告人の名前のよび方を公けに証明するものは外国人登録証明書である。

法務省は一九四七年六月二十一日の通達で氏名には漢字表記日本語よみの仮名を付することになつていた。(甲一五一号証)

一九七七年十一月十八日登録切替において上告人の名前の表記・漢字表記に民族語音よみの仮名を付することを法務省は認めた(甲四十九号―八十二)

一九八〇年八月七日発行の外国人登録証明書に、上告人の氏名漢字表記に「チォエ チャンホア」と仮名を付している。(甲九十六号証)

公けにも上告人の名前は「チォエ、チャンホア」とよび、よばれることが認められている。これは上告人が民族語音よみの獲得のため努力した具体的実蹟である、名前は固有名詞であり、世界に一つでありどこにおいてもその個人が属している民族語音でよび、よばれるのである。これが公的事実である。

〔4〕 第一審判決は「……然し乍ら氏名の呼称を違えたことが法律上人の人格を侵害する違法な行為と評価しうるか、否かについては前記のとおり、その目的、意図、態様等諸般の具体的事情を総合的に勘案し、現代我国社会における一般通常人の立場から客観的に判断することを要する」(第一審判十八枚表前から四行目から)と判示している

即ち判断の基準を現代我国社会における一般通常人の立場を客観的に判断するとのべた。

現在、マスメディアは我国日本社会だけに通用するのではなくそれは同時に全世界に知らされまさに国際化されている茶の間でニューヨークの株価を知りパリにおけるファッションショウをみることが出来るように発達してきている。

北九州の放送が韓国ではつきりきくことが出来る、実際、福岡放送局から流れた電波がソウルでキャッチされた。

このような国際社会において生活していること、そして人権保障が国際的に深い関心事になつていることを前提して考えなければならない。

世界どこの国においても、名前は固有名詞でありその名前のよび方はその個人が属している民族語音よみ、ただ一つであり民族語音よみで呼ばれ、又呼ばれるべきであることは衆知の事実である、上告人file_11.jpgfile_12.jpgfile_13.jpg、崔昌華(チォエチャンホア)が全世界で「チォエ、チャンホア」と呼ばれるのに日本だけ別のよび方があろうはずがない。

これが国際化された一般通常人の判断であるといわざるをえない。加えて、一般通常人は名前がまちがつてよばれた時「ちがいます」と訂正を求めれば「すみませんでした」と言つて訂正に応ずると共に特に異民族である場合発音に留意し少々むつかしくても民族語音よみに近づけるよう努力しており、上告人が約三十年の間、日本に生活しながら名前の呼称において体験した一般通常人の客観的な判断である。

このような意味で判示は一般通常人の立場からの客観的に判断することに誤りがあるといえる。

〔5〕 第一審判決は「当裁判所は被告の所為を目して違法と認めるのは相当でないとの結論に達したがその理由は左のとおりである。

第一に現代の我国社会において中国、韓国及び北朝鮮の地人名については原則として漢字表記日本語音読みの確立した慣習があり被告の所為が右慣習に従つたということである」(第一審判決十八枚表八行目から)と判示する

しかし、漢字表記、日本語音よみが確立した慣習といわれるが上告人の提出した証拠等により崔昌華(CHOE. CHAN-GWHA)又は崔昌華(チォエ チャンホア)と表記されている場合、即ち漢字表記に民族語音よみのローマ字又はカタカナのルビーがふられている場合に日本語音よみするという慣習はどこにも存在しない。

具体的事実は漢字表記に、民族語音よみのローマ字又はカタカナでルビーをふり、しかも「名前をまちがわないように」と注意を促がしている。それ故事実認定に誤りがあるといわざるをえない。

裁判所は慣習ということばのみにとりこにされ具体的事実をみおとしている。

一般通常人は漢字表記、民族語音よみのローマ字又はカタカナのルビーが付されている場合民族語音よみするのが普通である。

第一審判決に「……言語の慣習が時代の変遷と共に複雑に変容することは避けられずその変容の形態は誤より正へ、悪より善へ更には少しでも前向きに原音主義とできるだけ妥協する方向で変容することが望ましく……」(第一審判決十九枚裏十行目から)と判示しており、第二審判決に「右慣用及び放送の特殊性に変化が見られるであろうことは本件証拠上からも認められるので」(第二審判決七枚裏七行目から)とあるように慣習はかわるのである。

被上告人NHKは「差別語」と見なされる音語を慣用にさからつて新しい慣用にとりかえており、ここには思想、主義があるからこそかえたのである。

植民地時代の創氏改名、人権の保障と少数民族の言語使用等を考える時、悪しき人権侵害の慣習はよき慣習にかえるべきである。

第一審判決は更に相互主義として日本と中国関係を引用しておるが現在問題とされているのは日本と韓国との相互関係である。韓国人は日本人の名前を漢字表記、日本語音よみでよんでいる事実を指摘したい。

名前を奪われた民族がその痛み、民族べつ視を経験し民族抹殺にあつた苦い体験をしたが故に、民族感情から、民族抹殺をしようとした日本人の名前こそ、韓国語音よみすべきであるにもかかわらず、それこそ民族感情をのりこえ日本人の名前を日本語音よみでよんでいる。

日本政府外務省は一九八三年一月一日より相互主義を適用して韓国の地・人名を韓国語音よみにすることにした(甲一六〇号証①②)

特に日本民族と韓民族との歴史的経緯を考えた時なおさらのことである。

〔6〕 第一審判決に「被告の所為を違法と目しがたい第二の理由は新聞と異り表音を主体とする放送というマスメディアの特殊性に由来する」(第一審判決二十一枚表三行目から)と判示する。即ち第二の理由に表音を主体とする放送というマスメディアの特殊性をあげている。

しかし、表音を主体とするからこそ名前を正しく発音し呼ばなければならない義務を負うわけである

放送技術は日々発達しており人間の月面着陸もテレビ画面で見られる程であり、このような発達をみるとき人格と民族の表象としての名前のよび方こそ、正しく呼ぶための研究、努力が必要である。

同じマスメディアでありながら韓国においては日本人の名前を日本語音よみに呼んでも何の混乱は生じていない。

まず一般社会において、ニュースを見てそれを最もよく理解する人はニュースに登場する人と何らかの社会的つながりがある人である。このような人々はその個人的、社会的つながりがきそになつておる。その意味では不特定多数の人々はつながりのある特定の人々に比べてニュースに対して関心が薄いといわざるをえない。

即ち特定の人々は上告人の名前を民族語音よみで記憶しておるのに日本語音よみでは全く知らず他方不特定多数の人々は上告人の名前をまちがつて記憶させられる。

被上告人も一九七九年四月十八日準備書面五枚目において一定地域一定関係の中にあつては名前の民族語音よみが定着出来ると認めている。

放送は現場で起つている現実をナマで真実に放送すべきであつてそれを自己流に解釈しまちがつた放送をしてはならない。

更に被上告人がいうように日本語音よみという慣習と血みどろにたたかいながら定着させ、人格の尊厳と民族の誇りを守ろうとしているのに、それを一方的に数秒でふみにじる行為こそ人格と民族の尊厳をふみにじる行為そのものである。

〔7〕 第一審判決に「氏名を正確に呼称される利益それ自体はいまだ一般的にいつて法律上の程度に熟さない事実上のものと認めるのが相当である」(第一審判決十五枚裏十一行目)と判示する

確かに判示のように、日本人の相互間、又放送において、名前がちがえばすぐ訂正するという関係において事実上のものである。

しかし、民族のちがう、特に韓国人の場合、日本人相互間のことが拒否される。何度訂正を求めても拒否されつづけるからこそ法律上の利益を求め提訴したのである。

特に、八年間の裁判過程で人格権侵害と叫びつづけている上告人の氏名を再び日本語音よみすることによつて上告人の人格と民族の尊厳をふみにじる行為を法律によつて保護しなければならない。

このような意味で法律上の利益が存するといわざるをえない。

〔8〕 第二審判決に「被控訴人が一九八三年五月十四日再び控訴人の氏名を日本語音読みで放送したことは本件証拠上明らかであるから……また右一九八三年五月の放送まで及び現時点においても同様に違法であるとはいえないものの……」(第二審判決七枚表十三行目から)と判示している。

一九七五年十月三日人格権訴訟提起后八年間裁判闘争をしてきた。被上告人はその間上告人の名前を意図的に放送しないことで逆に人権の尊重をはかつたように思われる。それが指紋押捺拒否者の告発をめぐる報道、即ち北九州市が上告人を警察に告発したとたん、NHKは日本語音よみで放送した被上告人NHKが上告人の主張を十分知りながら同じ北九州放送局があえて日本語音よみで創氏改名と民族の尊厳をふみにじつた。

これこそ人格権侵害でなく何んであろうか。その怒りは生涯消えないものであり、それを、違法でないと判断した裁判官の良識がとわれるのである。

〔9〕 第一審判決、第二審判決のような司法判断が日本国内に通じても国際社会にては批判のまととなるだろう。この訴訟の内容は国際連合人権委員会にも提出されており、国際社会が注目しており少数民族の人権保障という立場から関心をもつている。日本の司法判断は日本(大和民族)人の心の反映といえる。

日韓両民族の真の平等な共存、友好を心より願いながら最高裁判所の国際社会の評価にたえる判断を期待するものである。

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